2010年11月28日日曜日

ルミ子に文字を習う愛子

ルミ子は1987年(昭和62年)、黒川紀章との対談の中で、母、愛子について次のように述べている。

「(母は)学校に行けなかったから、字を知らない。人前でとっても恥ずかしい思いをした。・・・母はね、私が(字を)教えたんです。」

しかし愛子は自身の回想録の中で、尋常高等小学校の頃の自分の学業について、次のように記述している。

「学校の勉強のほうはというとーーー成績が良かった教科は音楽、それと作文で、私の担任の先生がユリエ姉さんに『将来小説家にしなさい』と言ったこともあったそうです。」 (小柳ルミ子の真実)

尋常高等小学校の頃に、「将来は小説家に」とまで文才を讃えられた愛子が、文字を知らない、娘のルミ子に文字を習った、などということがある得るだろうか。

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ルミ子「アーツマンナイ、もうやめようかなっ」

母  「いったいどうしたの}

ルミ子「お習字、つまんないの。書きたい字を書かせてもらえないの。」

母  「どんな字を書きたいの」

ルミ子「こんにちは赤ちゃんとか、上を向いて歩こうとかだったら燃えるのになー」

母  「(困ったわね、そうだ!)その燃える字をお母さんに教えて」

ルミ子「エーッ、お母さん字を知らないの。」

母  「ナ、習っていないから・・・」

ルミ子「ヨッシャ、教えてあげるワ。私の筆と硯を使っていいワヨ」

(ルミ子は母の背中から手を握って筆を運ばせる)

ルミ子「そう。お母さん結構スジがいいワヨ」

母  「はい、はい、ありがとう。」

ルミ子「ウン、良く書けました。ナンカお習字って楽しいね」

母  「(シメシメ)新しい字を習ったら、お母さんにも教えて」

ルミ子「ウンッ」

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少女ルミ子は、感動と夢の世界へ、
まっしぐらに突き進んでいた。
母に導かれて。

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唄ってよ 愛の歌を
踊ってよ あなたは天使

                by 柘植信彦

2010年9月21日火曜日

卑弥呼 そして ルミ子へ

柘信は皓々たる月明かりの中 日誌に記録した
「・・・南至邪馬台国 女王之所都 水行十日 陸行一月・・・」
きっと明日 邪馬台国に到るはずだ
美貌の女王 卑弥呼が治めるという国 邪馬台国

翌朝早く 一宿を貸してくれた浜辺の倭人に礼を言うと 柘信は日の出を左に見て出発した
心が逸る
太陽が南中する頃 柘信は小さな丘を越えた
竹林の向こうに緑一色の豊かな水田が拡がる 赤や黄の作物のなる畑も 土が真っ黒だ
水量豊かな川の畔で 牛や馬が遊んでいる

水田の端に見える集落に向かおうとした時
柘信はふと立ち止まった
暖かい風にのって女の唄声が聞こえる
なんという美しい唄声か

♪ 愛するほどに 愛されたいと
   想う女は愚かでしょうか
   いとしき人にこの胸を
   ひろげてみたき夏の宵

   砂丘に咲きし花のごと
   砂に風に夢に吹かれて
     ああ みだれ髪
     心にかかります

   夜空にかかる銀の河
   頬に指に星は光りて
    ああ みだれ髪
    心に流れます

 ( 小柳ルミ子<みだれ髪>より )

慈愛か 哀しみか
叫びか 憧れか
柘信は陶然として 聞き惚れていた

突然 柘信の胸元に数本の槍が突き付けられた
(この槍は鉄か? まさか!)
誰何された
「私は魏王の使い 柘信という者 貴国の女王 卑弥呼様に魏王の信書を運んで参りました」
柘信は地面に平伏して 覚えて来た倭語を必死に話した
「∮ おお 魏王殿の使いのお方ですか 皆の者 槍をお退きなさい ∮」
柘信は驚いた この国の女王は自分のような身分の低い者にも 敬意を表すのか

卑弥呼は 国民を愛し 国民は 卑弥呼を愛した
卑弥呼の愛情と情熱を 国民は心から敬愛した

柘信は邪馬台国の栄える所以を 即座に理解した


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唄ってよ 愛の唄を
踊ってよ 天使のように

            by  柘植信彦

2010年8月2日月曜日

自転車に乗れない子 ルミ子

室見川の畔に、小さな野原があった。

母 「うしろを持っていてあげるから、強くペダルを踏んでーッ」

(しかし赤い小さな自転車はまっすぐ行かず、倒れてしまう)

母 「アラアラ、どうもバランスがとれないワネ、もう一度やってみましょう」

(何度やっても、自転車は倒れてしまう)

母 「おかしいワネ、バレエではあんなに体のバランスがとれるのに・・・。  
わかったワ! あなた下を向いているから、バランスがとれないのよ。
   前を、正面を向いて運転しなきゃ」

(やっぱり自転車は倒れる)

母 「まーだ下を向いてる。どうして正面を見ないの」

ルミ子 「だって、アリンコを踏んづけたらかわいそうでしょ」

母 「えーッ???」

ルミ子はいつまでも自転車に乗れなかった。
 
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この世を生き抜くには、優しくない方がいい

優しすぎると、負け続けるから

それでも優しくありたい

愛いっぱいに生きたい
 

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唄ってよ 愛の歌を
踊ってよ あなたは天使

        by 柘植信彦

2010年7月15日木曜日

二人の夫 と 愛子

ルミ子の母・愛子は、初婚の夫・光義の葬儀を次のように叙述している。

「光義の葬儀の日。 (略) 焼き場にも留美子を連れていきました。当時の焼き場は設備が貧弱で、亡骸を焼いているところが扉の破れ目から見えました。吹く風がまだ肌寒い。私は留美子を抱いて光義の亡骸が焼かれていくのを見ていました。光義の頭蓋骨がビチッと割れて、ジューッと脂が流れ出す・・・。煙突から煙が空に上って行く。私は涙も流さず、黙って立ち尽くしていました。」(「小柳ルミ子の真実」小柳愛子著)

一方、二人目の夫・忠士の葬儀については、娘のルミ子に次のような記述がある。

「人前では決して涙を見せない気丈な母が、私の前で見せた涙は五回。はっきり覚えています。 (略) 三回目は、二度目の父、忠士が亡くなった時。遺体が焼かれる直前、お棺にすがって、「さいなら! さいなら! 熱かろ!」と号泣した母。あんなに取り乱した母ははじめてでした。」(同上書に寄せたルミ子のあとがき)

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愛子の姿は 私達に何を語りかけて来るのだろうか

光義を見送った時 愛子は2歳7ヶ月のルミ子を抱え 暗い不安の裡にあった

忠士を見送った時 ルミ子は既にスーパースターとして 高く羽ばたいていた

愛情の深浅なぞを見出そうとするのは 愛を信じる者に 相応しくない

ただ私達は 人の愛の姿 愛の在り処に 悄然と立ち尽くすのみである

  ♪  女のひたむきさと 男の暖かさ
    ひとつに寄り添えたら 素敵でしょうね
   今日まで生きて来て 今日まで生きて来て
       良かったと思います

     女の臆病さと 男のぎこちなさ
    ひとつに溶けあえたら 素敵でしょうね
   今日まで生きて来て 今日まで生きて来て
       良かったと思います

      東京の空の下 東京の空の下
        あなたと出会えて   ♪

   (小柳ルミ子<東京の空の下で>より)


二人の夫を見送った愛子は 2006年冬 天に召される

享年86歳  法名 釈尼雅詠

ルミ子という輝きを 私達に残して

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光義 忠士 愛子の三人は 一つの墓に眠るという

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唄ってよ 愛の歌を
踊ってよ 空を駆けて

    by 柘植信彦

2010年6月25日金曜日

二人の父 と ルミ子

ルミ子の母・愛子はルミ子の二人の父親について、次のように述べている。

「留美子が物心つくかつかないうちから、一緒にお風呂に入っている時を狙って、忠士が本当の父親ではないことを話して聞かせました。そうやって自然に話して聞かせることで、多感な十五、六歳になってから大きなショックを受けないように。世間ではその頃になって本当のことを知って不良になったなどという話をたくさん耳にしていましたから。『留美子、本当のお父さんは違うんだよ。仕方がないの、死んでしまったから・・・』」
(小柳愛子著「小柳ルミ子の真実」から)

しかしルミ子は後年(1993年7月)、雑誌社の取材に次のように答えている。

「あれは私が小学校五年生くらいのときでした。(略)そのとき初めて知ったんです。本当のお父さんは私が三歳のとき病気で亡くなったこと。いまのお父さんはそのあと母が再婚した相手であること。それはショックでした。言い難い悲しみが襲ってきて、私はポロポロ涙を流して泣きました。(略)母が私に本当のことを知らせたくない、あわよくば将来にわたってずっと隠し通したい、今の夫を本当のお父さんだと思わせておきたいと考えたのは、結局のところ母の唯一最大の目的である『私を一流の歌手に育てる』プログラムの一環だったのかもしれません。」

ここで母と娘の発言に、食い違いが見える。
真実はどうだったのだろうか。


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 (お風呂で)

 母  「ルミ子 あのね お父さんは いないの」

ルミ子 「そうよ 今日は(佐賀の)ミカンを運ぶから 遅くなるって」

 母  「そ そうではなくって 亡くなったのよ」

(ルミ子はシャンプーの容器を振りながら)

ルミ子 「うん (シャンプーが)無くなったよ」

 母  「胸を悪くしてね・・・」

ルミ子 「大丈夫よ お父さんは 車に酔ったりしないから」

 母  「ハ 肺が・・・」

ルミ子 「うん 先生には 『はいっ』て返事してるよ 元気でいいって」

 母  「・・・・・・・」 

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母の想いは、娘には伝わらない。
母も、なにものかに追い詰められているのだ。
いつか、わかってくれる時が来るのを祈っていた。

   ♪  いつも私に 教えてくれた   
     まごころを 愛情を ありがとう   
     どうしたの 母さん 心配しないで    
     私はこんなに 大きくなったのに
     ふるさと 母さん  ふるさと 母さん ♪

       (小柳ルミ子<ふるさと母さん>より) 

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唄ってよ 愛の歌を
踊ってよ あなたは天使
    by 柘植信彦

2010年6月5日土曜日

肩車と愛子 ー その(2)

(弊ブログ 2009年9月「小柳ルミ子紀行 肩車と愛子」からの続きです。)

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「ずーっと先の話しだけど、ルミ子がこの川を渡る時にも 肩車をしてあげてね」

「ルミ子は そこの飛び石を 自分でピョンピョン 跳んでゆきそうだけどな」

「ルミ子は 肩車をして欲しいのよ お父さんに」

「ウン 分かった」

「ありがとう あ そうだ 忠士さんはどこ?」

「忠士は 飲み屋のツケを遺したから 面目なくて 向こうに隠れているんだ」

「ホホ そんなこと気にしなくて良いのに ルミ子のお父さんだもの
ルミ子がスターの階段を昇るたびに 祝杯を挙げてたんでしょう」

   ♪  いつだって あなたは 口数も少なくて
      わたしの 我が儘をきいてくれてたわ

      もう遅い 遅いけれど あなたに伝えたいのよ
      あんなに素敵な日々を ほんとにありがとう  ♪

         (小柳ルミ子<風よ伝えて>より)

彼岸に着いた

愛子は 光義の肩車から 降り
ルミ子のいる此岸を振り返った

「ルミ子 強く 生きるのよ」

ルミ子が楽屋の電話から唄い贈る<瀬戸の花嫁>は もう 聞こえて来ない
舞台に立ったのだろう

「ここからは ひとりで」
愛子はうなづくと ひとりで 歩き出した

父母の待つ
遠い輪廻の光に向かって

   ♪  いつの日か いつの日にか
      風よ あなたに伝えて 
      あんなに優しい愛を ほんとにありがとう  ♪

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唄ってよ 愛の歌を
踊ってよ 天使のように

   by 柘植信彦

2010年4月24日土曜日

唄ってよ もう一度

ルミ子は自著「私の半生記」のなかで、次のように述べている。

(子供の頃)「歌うことは大好きでした。ザ・ピーナッツさんや弘田美枝子さん、坂本九さんの歌をよく歌っていました。ポップス系が好きでした。自分で振りをつけて、友達や母の前で歌っていましたっけ。」

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窓を開けた
冷たい風が 吹き込んで来た
暗がりの中 真下に灰色の舗道が 小さく見える

「この苦しみを終わらせたいの お母さん ごめんなさい」

その刹那 どこからか 木琴のトレモロとともに
<上を向いて歩こう>が聞こえて来た

  ♪  上を向いて 歩こう
     涙が こぼれないように
     思い出す 春の日
     一人ぼっちの夜  ♪

小学生の頃 大好きだった曲だ

上を向いてみた
夜空に無数の星が見える

  ♪  上を向いて 歩こう
     にじんだ星をかぞえて
     思い出す 夏の日
     一人ぼっちの夜  ♪

坂本九の笑顔が 星空に浮かんだ
(坂本九は、1985年日航123便墜落事故により、帰らぬ人となる)

九の笑顔の周りに 大勢のファンの笑顔が 見えた
たくさんの瞳のひとつひとつに 自分の姿が映っている
自分の瞳には ファンの笑顔が映っているのか

  ♪  悲しみは 星のかげに
     悲しみは 月のかげに

     上を向いて 歩こう
     涙が こぼれないように
     泣きながら歩く
     一人ぼっちの夜   ♪

もう30年以上前になるだろうか
日比谷公会堂での ファンとの約束を思い出した

「初心を忘れないで 一生懸命に唄うことが
 皆様へのただ一つの 恩返しだと思います」

この時 初めて <瀬戸の花嫁>を唄ったのだった

不幸では 泣かない
幸せ過ぎる時 泣くのだ

苦しかった胸の鉛が 消えていった

「もう一度 生き直そう」

窓を閉じた

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誓いあったはずの愛を失うことは、耐え難い衝撃であっただろう。
しかし、人は ”使命” を識った時から、また人生が始まるという。

人には各々、使命があるのかもしれない。
自分の使命とは、なんなのだろうか。

唄ってよ 愛の歌を
唄ってよ もう一度

   by 柘植信彦